綾部市

●知足院夢覚生家 加藤家旧蹟

●舘ノ内 侍屋敷跡伝承地

●坂本龍馬妻 楢崎お龍家族寓居跡

当地はもと丹波国何鹿群岡村字「舘ノ内」という。このような地名は全国的に分布し、「土居ノ内」「堀ノ内」などと同じ区中世の侍屋敷跡のなごりと推定される(『綾部市史』)上巻、『丹波綾部の中筋歴史散歩』)。

 ここに幕末期の青蓮院(現京都市東山区)入木道(書道)支流、知足院夢覚(1796~1871)の生家加藤家があった。知足院の兄省吾は医師である。天保11年(1840)10月5日、典薬寮の「医道長上丹波朝臣」(錦小路頼易)から「当流医道入門之事(を)許容」されている。その子であり知足院の甥にあたる二代目省吾(1831~1902)は、青蓮院の侍医楢崎将作(1813~62)に学び、当地で開業した。楢崎の長女がのちに坂本龍馬の妻となるお龍である。

 文久2年(1862)、楢崎が京都において数え50歳で死亡したため、お龍を始めとする遺族(妻貞、次女光枝、三女君江、長男謙吉、次男太一郎)が零落した。知足院と省吾は物心両面でその保護を行う。その具体的な内容は知足院から二代目省吾に宛てた書翰群など(加藤家文書)によって明らかである。少なくとも貞や謙吉は一時期当地に庇護されていた。加藤家文書は、省吾の後裔省一氏とその意を汲んだ美恵子氏(省一氏の後継者昭二郎氏後室)の努力によって、現在まで残されたことを特記する。

 晩年のお龍の回想によれば、元治元年(1864)8月1日、知足院の仲人でその居所青蓮院内金蔵寺において龍馬と内祝言を行ったとされる。知足院と省吾はその後も龍馬とも土も楢崎遺族の生活に気を配った。それゆえ慶応3年(1867)11月15日、龍馬が殺害されると、知足院はそれを省吾に報じ、楢崎遺族の困苦を憂いたのである。

 なお加藤家は、省吾以後も嫡子太一郎が当地で医業を継いだほか、前傾省一氏が灸治所を営んだ。後継者昭二郎氏も1967年(昭和42)まで加藤医院を開業しており、ながく地域医療に貢献されたのである。