上京区⑤

● 聚楽城 加藤清正邸跡伝承地

● 藤原道綱母子 源頼光 一条邸跡

● 此付近 応仁の乱 洛中合戦勃発地

● 筑前福岡黒田屋敷跡

● 此北 近衛堀川屋敷跡

  当地は平安京の左京北辺二坊五町にあたります。「蜻蛉日記」の著者藤原道綱母が住まいし、のち武将源頼光や道綱が引き継いだ一条邸跡とされます(中古京師内外地図)。

 付近一帯は、応仁の乱の洛中での最初の合戦地です。

応仁元年(1467)5月26日、東軍細川勝元方の京極持清は、この前を通って一条戻橋から西軍へ攻め入り、一条大宮で戦いました。そのため、当時この北方にあった革堂(行願寺)・百万遍(知恩寺)・誓願寺などが焼亡しました(応仁記)。以後洛中の寺社・貴族・武家邸がまたたくまに被災し、古代・中世都市平安京は壊滅しました。

 羽柴(豊臣)政権期には、秀吉・秀次の聚楽城からみて東方にあたり、複数の大名屋敷が建設されました。当地付近は、西隣地「主計町」の地名によって加藤主計頭清正邸跡と伝承されます。尼崎本「洛中洛外図」には、正親町小路(現中立売通)と思われる道路(図の「一条戻り橋」は誤りか)と堀川交差点東入ル北側に「加藤主計殿」とあり、その傍証といえます。

 徳川時代には、少なくとも文久3年(1863)以前筑前福岡黒田屋敷となりました。

 なお当地の向かいは、小出伊勢や上行寺、ついで五摂家筆頭の近衛家堀川邸が建設されました。

 当地付近は千年におよぶ、たえまない重要な歴史の舞台地でした。


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