当地東山には、ながく「大仏」がありました。豊臣政権が造営し、徳川政府が維持したものです。その寺の名を江戸時代以後、方広寺といいました。
現在も同寺は存在しますが、当時はいまと比較にならない広さで、三十三間堂(蓮華王院本堂)や法住寺、養源院などもその境内に含まれていました。現在地はその南限にあたります。蓮華王院南大門(正しくは「大仏南門」)と太閤塀はそのなごりです。その前(南側)の道も、一般には塩小路通とよびますが、「大仏南門通」とも別称されています。付近にある「大仏変電所」の名もそれゆえです。
幕末期、この大仏南門近くに、坂本龍馬ら土佐出身の志士が住んでいました。ここで龍馬は、妻 楢崎 龍(のち鞆。龍馬の死後再婚して西村ツル)と出会うことになります。たまたまその母 貞と末妹 君江が同所で賄いをしていたからです。
このことはお龍の晩年の回想録「反魂香」に記録されています。すなわち「大仏南の門の今熊の(野)道」の河原屋五兵衛(瓦屋の五郎兵衛の意か)の隠居所を借りて、「中岡慎太郎、元山(本山)七郎(北添佶摩)、松尾甲之進(望月亀弥太)、大里長次郎(大利鼎吉)、菅野覚兵衛(千屋寅之助)、池倉太(内蔵太)、平安佐輔(安岡金馬)、山本甚馬、吉井玄蕃、早瀬 某、等」と同居していたといいます。
が、これが事実かどうか、ながくわかりませんでした。これを裏付けたのが、お龍の回想にも出てくる北添佶摩の書翰でした(元治元年〈1864〉5月2日付、母宛)。そこに「私儀は此節は、洛東東山近辺瓦町と申す処へ居宅を借受け、外に同居の人五・六人も之れあり不自由なく相暮し居候」とあるからです。当地の南向かいの地名はいまも「本瓦町」で、北添が龍馬らと暮らしていた地であったにちがいありません。
当地は同元治元年6月5日、新選組を有名にした池田屋事件の際、龍馬や北添らの住居であったため、京都守護職などの役人に踏み込まれます。龍馬らは不在でしたが、貞や君江が連行されました(まもなく釈放)。ちなみに北添はこの事件で戦死します。その後の8月初旬、帰ってきた龍馬は、お龍と青蓮院塔頭金蔵寺(現東山区三条通白川橋東入ル南側)で内祝言(内々の結婚式)を挙げることになります。以上の理由から、当地を重要な幕末史蹟として建碑し、顕彰するものです。
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