北区

●徳川時代 公儀 鷹ヶ峰薬園跡

●旧 山城国愛宕郡鷹ヶ峰村

徳川時代 公儀 鷹ヶ峰薬園跡

 このあたり一帯は、京都の北郊で、もと山城国愛宕郡鷹ヶ峰村といいます。

 江戸時代に徳川公儀(幕府)が設置した薬園跡です。薬園とは薬草を栽培する場所で、医学発展に不可欠といえます。

 徳川の武家政府は、すでに京都や伏見から江戸に移っていましたが、京都は禁裏(天皇)や朝廷のあるミヤコとして、変わらず日本の最重要都市でした。学問や芸術の中心地でもありました。

 徳川3代将軍家光の時代の寛永14年(1637)、肥後熊本の大名だった細川忠興が、病気がちな薩摩の大名島津家久に、「京都に来れられませんか。上方(京都・大坂など)での養生をおススメします。上方は医者も多くいますからきっと良くなりますよ」と手紙で述べているのも理解できます。

 寛永17年(1640)、京都北郊の当地鷹ヶ峰に薬園は設置されました。その規模は60間(約110メートル)四方で徳川家に仕え、禁裏の典医でもあった藤林道寿一族が、明治維新までこれを管轄しました。

 江戸後期の弘化4年(1847)の記録によれば、栽培された薬種のうち95種が禁裏に献上され、73種が江戸に運ばれています。詳しくは上田三平氏の労作「日本薬園史の研究」(1930年刊行)をご覧ください。

 明治維新後、藤林道寿は解任され、薬園は維持されることなく、茶畑などの農地に転用されました。跡地には石碑を建てられるなど顕彰されることもありませんでした。

 戦前、市内に約80基の石碑を建てたことで知られる京都市教育会は、当該地への建碑計画を持っていたようですが、実現しませんでした。2007年(平成19)に改訂された「京都市遺跡地図台帳」(第8版)にも、周知の遺跡として認定されていません。

 江戸に営まれた小石川薬園跡は、いまも東京大学理学部が管理し使用されております。大名や民間が営んだ薬園には、旧島原藩薬園跡(長崎県)、森野旧薬園(奈良県)、佐多旧薬園(鹿児島県)のように、現在国史跡に指定されたものもあります。当地とは大違いです。

 鷹ヶ峰薬園跡にはいまも名残があります。わずかながら農地が存在し、土地の区画(地割)も生きているほか、旧藤林邸の井戸も現存します。そもそも地名が「藤林町」で、往時をしのばせます。現在地はおおよそ同邸の表門跡にあたります。

 江戸時代の京都が、医学研究の最先端地のひとつであったことを永く伝えるため、ここ鷹ヶ峰に建碑し、顕彰いたします。

 

(2010年11月建立)

 


 

旧藤林道寿邸敷地内にあった井戸の遺構(井筒)

 2020年7月まで、井戸は存在していました。しかし住宅建設にともない破壊されました。鷹ヶ峰薬園跡が国や京都市の文化財(史跡)に指定されていなかったからです。開発を行った業者から井筒のみを貰い受け、当地に移築しました。ご協力くださった方々に深甚の謝意を表します。 

 惣構土居堀(いわゆる御土居)をはじめ、その他の鷹峯地域の旧蹟もいまだ万全な保護状態にありません。旧蹟は地域の由緒を知り、子どもたちの教育上不可欠のものです。このままでは失われる一方です。

 

(2021年8月移築)