伏見区①

● 江戸時代 薩摩島津伏見屋敷跡

● 天璋院篤姫 洛中洛外滞在時の宿泊地

● 坂本龍馬 寺田屋脱出後避難之地

江戸時代、ここに薩摩島津家の伏見屋敷がありました。

 徳川将軍は3代家光以後、約230年間、江戸にこもり京都にやってきませんでした。そのため原則として諸大名にも上洛を禁じました。西国大名が参勤交代のため江戸と本国を往復するときは京都ではなく、伏見を通ってゆきました。

 島津家も例外ではありません。少なくとも寛文10年(1670年)までにこの地に屋敷を営み、江戸と薩摩を往復する際の当主の滞在地としました。

 のち13代将軍徳川家定の正妻となる、島津斉彬の養女篤姫(天璋院)も、薩摩から江戸にむかう道中の嘉永6年9月29日(1853年10月31日)、この屋敷に入りました。

 ここを拠点に、10月2日洛中の近衛家、同4日洛東東福寺、同5日萬福寺(現宇治市)を訪問、同6日伏見をたちました。篤姫は以後、一度も洛中洛外を訪れませんので、この地は彼女の生涯たった1度の「京都観光」の宿舎だったわけです。

 慶応2年1月23日(1866年3月9日)深夜、蓬莱橋たもとの南浜町の寺田屋で、土佐亡命志士坂本龍馬が、薩長同盟成立の重要人として、伏見奉行所役人の襲撃を受けます。重傷を負いつつ脱出した龍馬は、濠川沿いの村上町の材木納屋に潜伏。妻龍(のち鞆)や長府毛利家臣三吉慎蔵の通報により、薩摩伏見留守居役大山彦八に救出され、この地に避難しました。

 龍馬が大政奉還、新政府綱領八策などに関係するのはこれ以降のことで、もしこの地に救出されなければ、以後の幕末史はちがう形になったことでしょう。