京都市中京区新町通三条下ル三条町は、平安京の条坊表記では左京四条三坊一町(西側)および八町(東側)にあたる。
11世紀末から12世紀初頭には、兵衛佐皇后宮亮藤原有佐の三条町尻第(鬼殿)などが存在した(一町内。新町通はもと町尻小路とよばれた)。有佐は但馬守顕綱の子とされるが、実父は後三条天皇である。
当第はのち女婿藤原忠長(摂政師実の子)に受け継がれ、加茂斎院を経験した令子内親王(白河天皇皇女)、摂政藤原忠実(忠長の甥)らが使用した(山田邦和「左京と右京」角田文衛総監修『平安京提要』所収)。
室町時代以前、三条町は祇園社領となり、同社を本所とする綿座(真綿を商う者の同業者組織)などに所属する商人はこの付近に居住した。そのため地域は商業の中心地として発展した(林屋辰三郎ほか監修『京都市の地名』)。
織田信長の時代、京都の政務に関わった羽柴秀吉(のち豊臣秀吉)は、当町内の伊藤与左衛門(道光)方を旅宿にした(『言継卿記』天正4年〈1576〉11月20日条ほか)。本能寺の変後もひきつづき使用され(『兼見卿記』天正10年12月3日条)羽柴(豊臣)政権初期には伊藤自身も蔵入地(直轄地)から上納される蔵米の決算(算用)に関わった(谷徹也「豊臣政権の算用体制」『史学雑誌』123巻12号所収)。その後、秀吉は妙顕寺跡に築いた二条城(現中京区小川通押小路古城町一帯)に居所を移す。
なお年次が確実な近代最古の実測図、寛永14年(1637)洛中絵図以後、徳川中期までに刊行された絵図類などは、当町を「伊藤ノ丁(町)」などと記している。徳川後期の天保2年(1831)改正京町絵図細見大成などには「八幡町」とある。これは祇園祭の際、当町から八幡山を出したためである(前掲『京都市の地名』)。
当町の東隣地北側(「三条衣ノ棚ツキヌケ」)には、豊臣期の京都所司代前田玄以に仕え、のち徳川家康に属して同所司代板倉勝重らを補佐した松田勝右衛門尉(政行)の屋敷があった。
大阪夏の陣直後の慶長20年(1615)5月28日、ここに寄宿した豊臣家重臣片桐旦元が死去している(「山本日記」)
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