当地はながく鴨川の西河原でした。平安時代の11世紀はじめには、三条京極(現三条通寺町)の北東にあたるこの付近には、貧しく孤独な人々を助ける悲田院が存在したと考えられます(「左経記」寛仁元年7月2日条、1017年)。河原とはいえ、すでに居住区域でした。
鎌倉時代の弘安7年閏4月16日(1284年)、時宗の開祖である一遍が上洛しました。そのおり、「三条悲田院」の「蓮光院」に滞在しました(「一遍上人絵伝」)。
南北朝時代になると、この地の権利をめぐって悲田院が洛東の法勝寺と争っていたことが知られます(応安元年〈正平23、1368〉、柳原家記録)。
徳川時代に入り、寛永19年(1642)ごろまでには地域一帯が市街化したとみられます。当初はのち京都代官(徳川家上方役人、家禄20人扶持)となる嵯峨角倉氏の初代当主、角倉平次(厳昭、角倉了以の孫)の屋敷地でした(「寛永後万治前洛中絵図」)。
その後、対馬国(現長崎県)の大名宗氏がここに邸宅を営みます。宗氏は徳川時代日本において朝鮮と通交した唯一の大名です。
朝鮮国の使者〈朝鮮通信使〉は徳川将軍の代替わりごとに来日し、京都をへて江戸へ向かいます。宗氏はその受け入れと護行を担いました。
宗氏の京屋敷は、もと堀川中立売下ルにありましたが、貞享2年(1685)から同4年の間にこの地へ移転しました。当地は、白糸、絹織物など、日本屈指の対朝鮮貿易の集荷地点と位置づけられます。この地が選ばれたのは、高瀬川に接する水上輸送の要地であったためでしょう。
この付近は南北に連なる大名屋敷の所在地で、北には長州萩毛利氏、加賀金沢前田氏、南には近江彦根井伊氏、土佐高知山内氏などが並んでいました。
幕末期、対馬宗氏は長州毛利氏の縁戚でしたので、その政治活動の重要な協力者となりました。その家臣であった大島友之充(映画監督の故大島渚の曾祖父)は、毛利家臣の桂小五郎(のち木戸孝允)と親しく、そのためか桂は対馬屋敷を居所のひとつとしました。
元治元年6月5日(1864年7月8日)、京都守護職会津侯松平容保所属の新選組による池田屋事件襲撃のおり、桂は屋根をつたって脱出し、対馬屋敷に難を逃れました(「乃美織江手記」)。
あなたもジンドゥーで無料ホームページを。 無料新規登録は https://jp.jimdo.com から