中京区①

● 北隣地 明治時代山本覚馬・八重邸宅跡

● 此附近 池田屋事件吉田稔麿殉節之地

● 洛中惣構土居(御土居)跡

この地は、明治時代、京都府顧問だった山本覚馬の邸宅跡です。当時は上京三十一区下丸屋丁三九一番地といいました(旧土地台帳、京都地方法務局所蔵)。

 覚馬はもと、会津侯松平容保の家臣で、幕末期には主君の京都守護職の活動を支えたひとりでした。維新後は明治新政府から認められ、京都府の近代化を進めました。覚馬の当地居住がいつからかは不明ですが、少なくとも1875年(明治8)8月には当丁(町)401番地の居住が確認できます(「私塾開業願草稿」、同志社史資料センター蔵)。

 当時覚馬は失明していました。その兄を支え、妹八重(のち同志社創設者、新島襄の妻)も同居していました。前期1875年には新島襄の居所でもありました。種々の傍証から、この401番地が391番地と同一地である(地番変更等があった)と考えます。付近には京都府権大参事で、のち二代目府知事となる槇村正直も住んでいました。

 なお、徳川時代にはこの至近に長州毛利氏の屋敷があったため、幕末期にも種々の舞台地でした。 たとえば元治元年6月5日(1864)、会津松平氏が長州との全面対決を決めた池田屋事件では、この地付近で長州の吉田稔麿(栄太郎)などが戦死しました。

 稔麿は故吉田松陰の松下村塾の愛弟子で、当時主家の命で徳川公儀との和解のため江戸へ向かう途中でした。ちなみに覚馬も会津家臣として池田屋事件に参加しています。

 豊臣秀吉時代の天正19年(1591)には、この地に京都全域を囲む土の城壁(土塁、土居)が構築されました。すなわち当地がながく京都の東のはしだったわけです。

 この城壁は鴨川堤防の役割も果たしたと考えられます。徳川前期までは現河原町通までが鴨川でした。だから「河原町」の名がつけられたのです。

 城壁は台形状で、高さ約5メートル、基底部は約20メートルの規模でした。一般に「御土居」と呼ばれます。竹が植えられていたので、徳川時代には「御土居藪」とも言われました。

 豊臣期には「土居堀」や「洛中惣構」などと呼ばれました。

 いまも京都市内の各所に土塁や付属した堀の痕跡が多く残されています。

 現在の町の形や道路の方向、地名、京都人の意識などにも影響が及んでいます。御土居堀は、京都の最重要史蹟ととして手厚い保護が必要です。


Google マップは現在の Cookie 設定では表示されません。「コンテンツを見る」を選択し、Google マップの Cookie 設定に同意すると閲覧できます。詳細は Google マップの[プライバシーポリシー]をご確認ください。Cookie の利用は、[Cookie 設定]からいつでも変更できます。