当地(上京区下塔之段町)付近は古く「愛宕郡出雲郷」と呼ばれていた。平安京の北郊にあたるため、遷都当初からの市街地ではなかった。
しかし建久6年(1195)、平親範によって近辺に毘沙門堂が建立され(「毘沙門町」が遺称)、鎌倉時代初期には開発が始まっている(「平親範置文」。毘沙門堂は寛文元年〈1661〉に洛東山科安祥寺下寺旧蹟地〈現山科区安朱稲荷山町〉に移転)。
室町時代前期、足利義満によって相国寺が創建されると、応永6年(1399)、境外である当地付近に七重塔が建立された(「薩戒記」)。塔の高さは360尺(約109メートル)といわれ、これが事実なら日本建築史上、最も高い木造の塔である。応永10年、落雷によって焼失し(「兼宣公記」)、そののちは当地に再建されず、ながく基壇が残されていた。下塔之段町の地名は北側の上塔之段町とともにその名残である。
徳川時代に入ると大名屋敷が設置される。備中松山候池田長常邸(「寛永14年〈1637〉洛中絵図」)や讃岐高松候松平頼常(水戸光圀の長男)邸(「元禄四年〈1691〉京大絵図」)などである。
徳川末期、薩摩島津家臣の西郷隆盛が、二本松薩摩屋敷そばの「塔之段」に2階建ての邸宅を営んだ(「元帥公爵大山巌伝」)。ここで西郷は従道ら三人の弟、二人の甥、大山巌ほか六名の食客、学僕の徳之島仲祐と同居していた(大西郷兄弟」)。慶応2年(1866)1月初旬、「薩長同盟」のため上洛した長州毛利家臣木戸孝允一行はまず当邸に入り、その後鞍馬口通室町の御花畑屋敷(小松帯刀寓居)に移った(「品川弥二郎述懐談」、「公爵山県有朋伝」)。当邸は慶応3年12月の王政復古クーデターのころにも使用していた(品川子爵伝」)。
当該碑の所在する円覚寺(真宗大谷派)は、豊臣・徳川移行期の慶長年間(1596~1615)に、僧順西によって創建された(「京都坊目誌」)。1908年(明治41)5月、京都帝国大学文科大学地理学教室に、初代教授として着任したばかりの小川琢治とその家族が住まいした。三男で、のちのノーベル物理学賞受賞者湯川秀樹は、当時数え2歳であった。長兄でのちの冶金学者小川芳樹、次兄の同じく東洋史学者貝塚茂樹らとともに1年ほど滞在した(「旅人ー湯川秀樹自伝」)。
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