当地は羽柴(豊臣)秀吉の居城、聚楽城(聚楽第)の南方にあたります。広島市立中央図書館蔵浅野文庫「諸国古城之図」(聚楽)によれば徳川家康の邸宅がありました。公家山科言経の日記(文禄4年〈1595〉8月8日条)によれば、徳川邸について「聚楽南の私宅」とあり、矛盾しません。
前掲「諸国古城之図」には徳川邸の北向かいに「中村式部大輔(一氏)、東向かいに「浮田宰相(宇喜多秀家)の邸宅表記がありますが、ほぼ同じ地に現在中村町や浮田町が存在し、これを裏付けます。
現在徳川邸跡を示す地名は存在しませんが、元禄15年(1702)ごろには「江戸町」が存在していました(京都図屛風)。以上から当地は聚楽城の徳川邸跡と判断できます。
文禄4年の聚楽廃城後は徳川邸も破棄され、前記「江戸町」や北伊勢屋町に代表される町人地に変わりました。西隣地には徳川時代に入って京都所司代の千本屋敷が営まれ、幕末維新期まで維持されました。火見櫓が置かれ、どこからも目につく存在だったと思われます(多数の京絵図)。
幕末期の安政5年(1858)、京都警衛のため、北側至近の「千本通御用地」のうち二千坪(日暮通下立売下ル西側)を陣屋地として和州郡山城主柳沢保申に与えられました(柳沢家譜集)。
これは慶応3年(1867)4月、徳川公儀(幕府)若年寄の永井尚志の邸宅として使用されます。新選組局長近藤勇が自ら永井家臣に撃剣指導に来たほか(永井玄蕃頭尚志随伴記)、同年11月10日と11日、坂本龍馬らが訪問しています(神山左多衛日記、同月11日付林謙三宛龍馬書翰、越前藩幕末維新公用日記)。龍馬殺害4日前で、新国家づくりの模索が見込まれます。龍馬は永井を「ヒタ同心ニて候」と信頼していました(前掲、林謙三宛書翰)。
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