当地は平安京一条大路のすぐ北にあたる。つまり平安遷都当初は都市域ではなかった。が、西隣地(一条大宮上ル西側一帯)に平安中期の能書家、藤原行成が世尊時を創建したと推定されており、京外ではあるが当地も早くから開発されたと思われる。
室町時代には、備中国(現岡山県)に勢力をもつ細川勝久の屋敷が営まれた。応仁の乱では一族の細川勝元に属したため、応仁元年(1467)5月、当地も洛中での最初の合戦にまきこまれた。
応仁の乱から約120年後、天下統一を進める豊臣秀吉は、京都に本拠を定めた。征夷大将軍ではなく、関白として、天皇のそばでの政権維持を考えたためである。
そのため洛中に本格的な城郭を建設した。現在の一条大宮の西南一帯に位置した聚楽城である。注目すべきは、全国の大名が、秀吉の命により聚楽城のそばに大名屋敷を営んだことである。すなわち京都は単なる豊臣家の中心地ではなく、「武家国家の首都」になったのである。
当地にはその際、北国の大名、上杉(弾正少弼)景勝の屋敷がつくられた。重臣 直江兼続も出入りしたことは間違いなかろう。
当地が上杉屋敷跡であることは、信用できる同時代史料により、一条戻橋ちかくに存在したこと、そのすぐ西側に大宮通りが通っていたと分かるほか、少なくとも江戸初期から当地の地名が、上杉弾正少弼に通ずる「弾正町」であるため確実と考える。
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